第10回「 清川浩行監督ロングインタビュー」 インタビュアー・山雄樹
――まずは大変なシーズン、本当にお疲れ様でした。
清川 お疲れ様でした。
――今、振り返って思うことはどんなことですか。
清川 いろいろあった年だし、それはチーム限らず、熊本の皆さんも含めて大変な1年だったっていうのは感じています。
――チームは、11月20日の最終戦(第42節セレッソ大阪戦)を終えて、1週間のオフ(11月21日〜11月27日)を取られました。監督は、この1週間、どう過ごされていたのですか。
清川 ほぼ家にこもっていました、何もせず。
――「何もせず」、ですか。
清川 ゆっくり日帰りで温泉に行くとか、その程度です。あと、何をしていたって、ほぼ何もしていない状態のほうが多かったです。
――よく眠れましたか。
清川 寝たっていうより、昼寝の方が長かったです。夜は夜で(シーズン中は、準備作業などで遅い時間まで起きていることが)染み付いている部分があるので、朝、目が覚めてしまうところがあって起きる、その原因も昼寝が長すぎたからかもしれないですけど、そんな感じでした。
全員の力で手にした残留
――シーズンのお話を伺います。まず、チームの成績としては12勝10引き分け20敗、勝点46で16位、得点38、失点53という成績でした。成績についてはいかがですか。
清川 満足行く結果ではないし、チームで立てた目標にもほぼ遠いところの数字なので、そこの結果は自分の責任だと思っています。最低限の目標であるJ2に残留できたというところは、最終的にはありますけど、勝敗という勝ち負けのところでいくと、もっともっと頑張らなきゃいけなかったかなと思っています。
――それでも、J2残留というのは、このクラブの池谷友良社長も、「J1昇格プレーオフ進出ぐらいの価値があるもの」だと話していました。それから、リオデジャネイロオリンピックで日本代表を率いた手倉森誠監督も、東日本大震災のときに、ベガルタ仙台を指揮した経験から、「ロアッソだけが被災する、選手たちも傷ついている。そんな中で戦うということは、ベガルタ仙台のときとは比べものにならないぐらい大変だ」と語っていました。
その中での残留というのは、ものすごく価値があることだと思いますが、いかがですか。
清川 そう言っていただければ、最後に、大変な時期を選手が乗り越えて全員の力でJ2に残留できたというのは、大きかったと思います。個人的には、自分の責任というのは大きかったし、J2に残れたのは、選手のおかげだと思っています。
――まずは大変なシーズン、本当にお疲れ様でした。
清川 お疲れ様でした。
――今、振り返って思うことはどんなことですか。
清川 いろいろあった年だし、それはチーム限らず、熊本の皆さんも含めて大変な1年だったっていうのは感じています。
――チームは、11月20日の最終戦(第42節セレッソ大阪戦)を終えて、1週間のオフ(11月21日〜11月27日)を取られました。監督は、この1週間、どう過ごされていたのですか。
清川 ほぼ家にこもっていました、何もせず。
――「何もせず」、ですか。
清川 ゆっくり日帰りで温泉に行くとか、その程度です。あと、何をしていたって、ほぼ何もしていない状態のほうが多かったです。
――よく眠れましたか。
清川 寝たっていうより、昼寝の方が長かったです。夜は夜で(シーズン中は、準備作業などで遅い時間まで起きていることが)染み付いている部分があるので、朝、目が覚めてしまうところがあって起きる、その原因も昼寝が長すぎたからかもしれないですけど、そんな感じでした。
全員の力で手にした残留
――シーズンのお話を伺います。まず、チームの成績としては12勝10引き分け20敗、勝点46で16位、得点38、失点53という成績でした。成績についてはいかがですか。
清川 満足行く結果ではないし、チームで立てた目標にもほぼ遠いところの数字なので、そこの結果は自分の責任だと思っています。最低限の目標であるJ2に残留できたというところは、最終的にはありますけど、勝敗という勝ち負けのところでいくと、もっともっと頑張らなきゃいけなかったかなと思っています。
――それでも、J2残留というのは、このクラブの池谷友良社長も、「J1昇格プレーオフ進出ぐらいの価値があるもの」だと話していました。それから、リオデジャネイロオリンピックで日本代表を率いた手倉森誠監督も、東日本大震災のときに、ベガルタ仙台を指揮した経験から、「ロアッソだけが被災する、選手たちも傷ついている。そんな中で戦うということは、ベガルタ仙台のときとは比べものにならないぐらい大変だ」と語っていました。
その中での残留というのは、ものすごく価値があることだと思いますが、いかがですか。
清川 そう言っていただければ、最後に、大変な時期を選手が乗り越えて全員の力でJ2に残留できたというのは、大きかったと思います。個人的には、自分の責任というのは大きかったし、J2に残れたのは、選手のおかげだと思っています。
――J3降格圏(21位・22位)と付かず離れずというか、危ないのか、危なくないのか分からないぐらい勝点差6とか、4とか、非常に難しい数字のまま、シーズンが推移していたと思います。J2残留、J3降格への危機感は、ありましたか。
清川 例年だと(勝点)40ポイントぐらいが降格とか、入れ替え戦に回るような勝点でしたが、今年は、下位と中位が接戦だったので、40だと多分かなり難しいだろうなというのは、シーズンの終わり、9月ぐらいのところでは感じていました。45以上なければ、接戦になるなというのは感じて、残り5戦になった頃には、最後の最後まで分からなくなるような展開になるなというのは感じていました。
――ということは、21位、22位のチームとの勝点差というよりも、自チームの勝点をいくつ積めるかということを考えながら戦っていたのですか。
清川 そうですね。そっちの方が大きかったです。どこに勝って、どこで負けてもいいという、対戦相手による数字上の計算や、得失点の計算じゃなくて、残り1戦、1戦をしっかり勝っていかなきゃいけないという方が大きかったです。
――それでも、「この1戦は絶対に落とせない」というゲームはありましたか。
清川 (残留を争うチームとの)直接対決というか、カマタマーレ讃岐戦(10月23日・J2第37節・ロアッソは勝点39で18位、讃岐は勝点35で19位・0対0で引き分け)であれ、FC岐阜戦(11月12日・J2第41節・ロアッソは勝点43で18位、岐阜は勝点40で19位・1対0で勝利)もそうですけど、そこは落としちゃいけないゲームでした。最後のところまでもつれる前でいくと、(首位の)北海道コンサドーレ札幌(10月30日・第38節・2対0で勝利)に勝って勝点3を取ったのは、大きかったです。その後の松本山雅FC(11月30日・第39節・1対0で敗戦)、京都サンガF.C.(11月6日・第40節・2対0で敗戦)で、連敗はしましたけど、そこでまた気持ちを入れ替えて岐阜戦に1対0で勝ったっていうのはすごく大きかったと思っています。
選手の前向きな姿勢があってこそ
――成績について、「地震がなければ」と思うことはありますか。
清川 いや、そこは今の整理ついてない部分でいくと、「あったからどうだ」、「なかったからどうだ」ということより、出だしが良くて(クラブ史上初の、開幕3連勝・第5節を終えて単独首位)、開幕(2月28日・第1節ロアッソ1対0松本山雅FC)取って連勝できた部分もあるので、開幕の選手たちも良い状態の中で、1年間通してプレーさせてあげたかったなという思いがあります。
――「年間通して、いい状態で」とは。
清川 次のゲームに対しての良い準備をさせてあげたかったなというところです。その準備ができないまま、いろんなものが進んできて、数多くの試合が入ってきて、連戦続きの中でコンディション重視のゲームになって、さらに次から次へとゲームが入ってきました。「何が悪くて」、「何が良くて」という修正を積み重ねていかなきゃいけないところが、選手になかなか落とし込むことができませんでした。その中でも当然、落とし込みながら戦っていかなきゃいけなかったとは思うのですが、そういう意味で、選手たちには、苦労をかけたなという思いがあります。
――8月21日の第30節ギラヴァンツ北九州戦から9月11日の第31節愛媛FC戦まで、3週間で、リーグ戦5試合、天皇杯2試合、あわせて7試合、そこに夏場の疲労も重なって、ものすごいハードスケジュールだったと思います。監督の仕事としては、どのような作業が続きましたか。
清川 まずは、選手の疲労やコンディションの把握が大きかったです。1試合、1試合、戦うといっても、連戦になってくるので、2、3試合先も見ながら、いろんな戦い方、戦略の部分も含めて、考えていました。1週間の中に3試合入ってきたとして、選手をどう見て、どこで使って、どこでスキップして1回休ませてとか。今、振り返っても、何をどうしてきたかということも、ちょっと思い返せないぐらい試合が続いていたと思います。選手も、次から次へと試合が入ってくるので、気持の準備や、どう戦っていくのという迷いも、当然、自分以上にあったと思います。自分も、今、振り返ると、なかなか思い出せないというぐらい、きつい時期だったなっていうところは一番感じます。選手の状態について、ここの3連戦で起用したときに、次の連戦で起用したら壊れてしまうのではないかという、怪我をしてしまう恐れも含めて、その辺のところが一番大変だったなという記憶だけはあります。
――その中でも、「外せない選手」や「外したくない選手」がいたと思います。記録を見ると、意外に出ずっぱりの選手がいます。(キャプテン岡本賢明はこの期間リーグ戦5試合すべてにスタメン出場、39歳の藏川洋平はリーグ戦5試合すべてフル出場)「外せない」、「外したくない」という思いも抱えながら、ぎりぎりのところで判断されていたのですか。
清川 そうですね。自分だけの判断ではなくて、コーチングスタッフ全体で、ぎりぎりの判断の中で、きつい選手も当然、中には絶対いたと思いますが、皆が、ぎりぎりのゲームをしていました。
――監督自身の、疲労や心身のストレスはありましたか。
清川 結果が出ていれば、まだ落ち着けるところはあったと思いますが、結果が出ていなくて、そこはすべてが監督の責任です。連敗が、かなり続いたときには、どう立て直して、どういう方向に向かっていったらいいのか、考え、きつかったです。
――最終戦(11月20日・第42節セレッソ大阪戦)の後、池谷社長にお話を伺ったときに、監督は「夏場に素麺も喉を通らないほど苦労した」ということを言われていました。
清川 食べることに関しては、昔からそんなに多くは食べていなかったのですが。悩むというか、考える整理がうまくつかない中で、連続的にゲームが入ってきました。自分の経験のなさや、いろんな部分を感じながらも向かってくるゲームに対して準備していかなきゃいけないので、一言で言うと、きつかったというのが本当のところです。
――そんなときに助けられたものや、支えになったものは何でしたか。
清川 それはもう選手たちがいろんな部分を前向きに捉えてくれたことです。当然、試合に出る、出ないという部分で、シビアにもなってくるし、試合に出ていたのに、次また出られなかったりすると、いろんなものが発生してくると思います。それを、一人一人が、「チームのために」と耐え忍んでくれたということに、すごく助けられました。また、スタッフが後押ししてくれたということも、大きかったと思います。
――確かに、なかなか練習試合ができない、あるいは、連戦でじっくりとしたトレーニングもできないという中でのメンバー選考でしたね。
清川 そうですね。天皇杯では、練習試合が連戦の中でなかなか組めない中で、それまでなかなか試合に出られなかった選手を起用しました。でも、いざ天皇杯という公式戦の中で出たときの選手のゲームパフォーマンスが、良くないという言い方じゃなくて、ゲームをしてないので、感覚をつかめていない印象がありました。それは、選手たちに申し訳なく思います。その中で、練習試合を組めていれば、もっともっと、一人一人のパフォーマンスは上がってきたと思うし、一つ一つの蓄積が身になって、チャンスをもらって公式戦でも力を発揮できたはずだと思います。
――セレッソ大阪との最終戦で、「前半のような戦い方、ある程度、自分たちがボールを持って主導権を握るというサッカーを、今シーズンは、連戦や、降格圏との勝点差の関係で、なかなかできなかった。でも、これは、ロアッソが来シーズン以降、もっと上位にいくためには必要なことだと思う」と、薗田淳選手が話していました。
清川 そうですね。勝点を積み重ねていかなきゃいけなかったときに、どうしても失点をしない、どうしても守備から入らざるを得ませんでした。本来、良い守備から良い攻撃を仕掛けるという戦術はあったのですが、選手たちも、ある程度、リスクを負ってでも、攻撃を仕掛けるという勇気が、少し持てなかった部分はありました。それができなかったのは、J2に残留しなければならないというプレッシャーが一番大きかったと思います。
――そういうものって、やはり「地震によって失われたもの」っていう感覚になりますか。
清川 地震でというよりは、中断期間や連戦の影響で時間がありませんでした。自分たちが、シーズンを通して、狙い通りにやっていくためのトレーニングの蓄積もできず、意識や質の向上にむけた、トレーニングの中での落とし込みもできませんでした。それが通常のサイクルで、試合と試合の間に1週間あれば、対戦相手に対しての準備に加え、自分たちのサッカーの質をどう上げていくかという準備を並行してできるとは思います。でも、トレーニングで、自分たちのサッカーの質の向上ができず、すぐに向かってくる対戦相手に対してどう戦うかという、少しの準備しかできませんでした。そういった準備ができる、できないということが、大きな勝ちにつながる、あるいは、逆に、勝てるゲームを落とすというところにもつながっていたと、今、思っています。
非常事態の監督1年目「やっていてよかった」
――あらためて、「地震がなかったら」と思うことはありますか。
清川 全部、今、終わった中でいくと、そこが思えないというか、よく分からないです。なかったらどうだったかということを思うところまでいっていないです、正直。
――それは何故ですか。
清川 難しい質問で、答えもちょっと難しいかもしれないのですが、理由は、もう起きてしまったことだからということと、自分は監督をして1年目だからということです。コーチは、熊本に来て6年間(2010年〜2015年)やりましたけど、これまで1年を通して監督としてやってきた蓄積はありません。監督としての1年間の作業、やらなければいけないことっていうものの経験がありません。監督としての経験は、今年1年しかないので、比較対象がなく、照らし合わせて何とかというものが、今、浮かんできません。そんな感じです。
――確かに、通常時の1年は過ごしていませんし、今年はある意味、非常事態の1年でした。清川監督にとっては、この1年が監督の全てで、比較の基準はないですね。
清川 どこかのチームで監督をやっていれば、通常、「多分、夏場にこういうことが起きて」とか、「それまでにこういうことをして何とか」というようなことを考えるはずです。そして、1年を積み重ねていくということが、監督業の経験だと思います。でも、その経験がなかった中で、この状況なので、今、言ったようなことが全てです。
――その一方で、地震の後に得たものとか、改めて気付かされたものが、たくさんあると思いますが、いかがですか。
清川 準備が、すごく大事なことだと思います。プレシーズン、開幕前のシーズンでの準備もそうですけど、地震が起きて1か月以上、トレーニングができない中で、リーグ戦に復帰して、コンディションもつくってきた部分が、1からまた体も含めてつくっていかなきゃいけませんでした。いろんな準備、体もそうですが、心も含めて、サッカーの技術的なところ、戦術的なところの準備をして積み重ねていかないと、1年間、戦っていくっていうのはすごく難しいことだなということを感じます。
<全体練習最終日(12月9日)、クラブハウス入口にサポーターが掲げた横断幕>
――ロアッソというチームの使命であるとか、熊本県民に与える影響の大きさとか、サッカー界全体のつながりであるとか、感じたものがあると思いますが、いかがですか。
清川 熊本の県民の方だけじゃなくて、全国のサッカーファミリーもそうですし、Jの各クラブさんもそうですし、大勢の方がロアッソ熊本っていうチームを応援してくれました。熊本の県民の方は、なおさら自分たちのチームのために応援してくれたし、復旧だったり、復興への願いを込めて声を掛けてくれたり、応援をしてくれました。サッカーをやっていてよかったなと思います。
――今年1年、監督をやってよかったって思われますか。
清川 クラブにも感謝しています。厳しいというか、きつかった1年でしたけど、監督をさせてもらってうれしかったし、選手と一緒にそこを乗り越えて、ぎりぎりですけど、残留して、また来年J2で戦って次のステップ、あるいは、目標に向かえる場にいけたということに関して感謝しています。
――今年の経験を来年以降にどうつなげていきますか。
清川 簡単には勝てないと思いますが、ロアッソ熊本の大きな目標であるJ1昇格というものに向かっていけると思います。J2で優勝することは、すごく難しいし、J1昇格プレーオフ(リーグ戦6位以内)まで進むことも、すごく難しいと思います。でも、今年、皆が苦しい経験をしているので、少々の苦しい状態で逃げだす選手は決していないと思います。「熊本のため」という部分も含めて、「チームイコール熊本」なので、チームのために、来年もまた1年間、戦ってくれると思います。人として、人間として大変な時期を乗り越えてきたことは、これからの人生にすごく大きな力になると思います。それを来年につなげる。今年、もがき苦しんだものは、来年、厳しい状況の中で耐えられる力になります。その力を皆が、持ってくれていると思います。
――監督は、熊本地震発生直後、「地震には勝てないかもしれないけれど、地震には負けないようにしたい」と言われました。その通り、負けない1年でした。
清川 何とか踏ん張ってきたとは思っていますが、その踏ん張りは、自分ではなく選手の踏ん張りなので、選手には、本当に感謝しています。
このインタビューは2016年11月30日(水)に行われました。
◇著者プロフィール:
山雄樹(やまさき ゆうき)
熊本放送(JNN・JRN)アナウンサー。1975年(昭和50年)6月16日、三重県鈴鹿市生まれ。立命館大学産業社会学部を卒業後、1998年熊本放送入社。主にスポーツの中継アナウンスや取材、番組制作を担当。系列のアナウンサーの技量を競う「アノンシスト賞」では、「テレビスポーツ実況」部門で二度、「ラジオスポーツ実況」部門で一度、九州・沖縄ブロック審査で最優秀賞、2015年度は、全国審査で優秀賞を受賞した。
チーム発足時からJ2ロアッソ熊本の取材や応援番組の司会を続け、2008年のJ2参入以降は、スカパー!Jリーグ中継でホームゲームの実況をつとめる。
清川 例年だと(勝点)40ポイントぐらいが降格とか、入れ替え戦に回るような勝点でしたが、今年は、下位と中位が接戦だったので、40だと多分かなり難しいだろうなというのは、シーズンの終わり、9月ぐらいのところでは感じていました。45以上なければ、接戦になるなというのは感じて、残り5戦になった頃には、最後の最後まで分からなくなるような展開になるなというのは感じていました。
――ということは、21位、22位のチームとの勝点差というよりも、自チームの勝点をいくつ積めるかということを考えながら戦っていたのですか。
清川 そうですね。そっちの方が大きかったです。どこに勝って、どこで負けてもいいという、対戦相手による数字上の計算や、得失点の計算じゃなくて、残り1戦、1戦をしっかり勝っていかなきゃいけないという方が大きかったです。
――それでも、「この1戦は絶対に落とせない」というゲームはありましたか。
清川 (残留を争うチームとの)直接対決というか、カマタマーレ讃岐戦(10月23日・J2第37節・ロアッソは勝点39で18位、讃岐は勝点35で19位・0対0で引き分け)であれ、FC岐阜戦(11月12日・J2第41節・ロアッソは勝点43で18位、岐阜は勝点40で19位・1対0で勝利)もそうですけど、そこは落としちゃいけないゲームでした。最後のところまでもつれる前でいくと、(首位の)北海道コンサドーレ札幌(10月30日・第38節・2対0で勝利)に勝って勝点3を取ったのは、大きかったです。その後の松本山雅FC(11月30日・第39節・1対0で敗戦)、京都サンガF.C.(11月6日・第40節・2対0で敗戦)で、連敗はしましたけど、そこでまた気持ちを入れ替えて岐阜戦に1対0で勝ったっていうのはすごく大きかったと思っています。
選手の前向きな姿勢があってこそ
――成績について、「地震がなければ」と思うことはありますか。
清川 いや、そこは今の整理ついてない部分でいくと、「あったからどうだ」、「なかったからどうだ」ということより、出だしが良くて(クラブ史上初の、開幕3連勝・第5節を終えて単独首位)、開幕(2月28日・第1節ロアッソ1対0松本山雅FC)取って連勝できた部分もあるので、開幕の選手たちも良い状態の中で、1年間通してプレーさせてあげたかったなという思いがあります。
――「年間通して、いい状態で」とは。
清川 次のゲームに対しての良い準備をさせてあげたかったなというところです。その準備ができないまま、いろんなものが進んできて、数多くの試合が入ってきて、連戦続きの中でコンディション重視のゲームになって、さらに次から次へとゲームが入ってきました。「何が悪くて」、「何が良くて」という修正を積み重ねていかなきゃいけないところが、選手になかなか落とし込むことができませんでした。その中でも当然、落とし込みながら戦っていかなきゃいけなかったとは思うのですが、そういう意味で、選手たちには、苦労をかけたなという思いがあります。
――8月21日の第30節ギラヴァンツ北九州戦から9月11日の第31節愛媛FC戦まで、3週間で、リーグ戦5試合、天皇杯2試合、あわせて7試合、そこに夏場の疲労も重なって、ものすごいハードスケジュールだったと思います。監督の仕事としては、どのような作業が続きましたか。
清川 まずは、選手の疲労やコンディションの把握が大きかったです。1試合、1試合、戦うといっても、連戦になってくるので、2、3試合先も見ながら、いろんな戦い方、戦略の部分も含めて、考えていました。1週間の中に3試合入ってきたとして、選手をどう見て、どこで使って、どこでスキップして1回休ませてとか。今、振り返っても、何をどうしてきたかということも、ちょっと思い返せないぐらい試合が続いていたと思います。選手も、次から次へと試合が入ってくるので、気持の準備や、どう戦っていくのという迷いも、当然、自分以上にあったと思います。自分も、今、振り返ると、なかなか思い出せないというぐらい、きつい時期だったなっていうところは一番感じます。選手の状態について、ここの3連戦で起用したときに、次の連戦で起用したら壊れてしまうのではないかという、怪我をしてしまう恐れも含めて、その辺のところが一番大変だったなという記憶だけはあります。
――その中でも、「外せない選手」や「外したくない選手」がいたと思います。記録を見ると、意外に出ずっぱりの選手がいます。(キャプテン岡本賢明はこの期間リーグ戦5試合すべてにスタメン出場、39歳の藏川洋平はリーグ戦5試合すべてフル出場)「外せない」、「外したくない」という思いも抱えながら、ぎりぎりのところで判断されていたのですか。
清川 そうですね。自分だけの判断ではなくて、コーチングスタッフ全体で、ぎりぎりの判断の中で、きつい選手も当然、中には絶対いたと思いますが、皆が、ぎりぎりのゲームをしていました。
――監督自身の、疲労や心身のストレスはありましたか。
清川 結果が出ていれば、まだ落ち着けるところはあったと思いますが、結果が出ていなくて、そこはすべてが監督の責任です。連敗が、かなり続いたときには、どう立て直して、どういう方向に向かっていったらいいのか、考え、きつかったです。
――最終戦(11月20日・第42節セレッソ大阪戦)の後、池谷社長にお話を伺ったときに、監督は「夏場に素麺も喉を通らないほど苦労した」ということを言われていました。
清川 食べることに関しては、昔からそんなに多くは食べていなかったのですが。悩むというか、考える整理がうまくつかない中で、連続的にゲームが入ってきました。自分の経験のなさや、いろんな部分を感じながらも向かってくるゲームに対して準備していかなきゃいけないので、一言で言うと、きつかったというのが本当のところです。
――そんなときに助けられたものや、支えになったものは何でしたか。
清川 それはもう選手たちがいろんな部分を前向きに捉えてくれたことです。当然、試合に出る、出ないという部分で、シビアにもなってくるし、試合に出ていたのに、次また出られなかったりすると、いろんなものが発生してくると思います。それを、一人一人が、「チームのために」と耐え忍んでくれたということに、すごく助けられました。また、スタッフが後押ししてくれたということも、大きかったと思います。
――確かに、なかなか練習試合ができない、あるいは、連戦でじっくりとしたトレーニングもできないという中でのメンバー選考でしたね。
清川 そうですね。天皇杯では、練習試合が連戦の中でなかなか組めない中で、それまでなかなか試合に出られなかった選手を起用しました。でも、いざ天皇杯という公式戦の中で出たときの選手のゲームパフォーマンスが、良くないという言い方じゃなくて、ゲームをしてないので、感覚をつかめていない印象がありました。それは、選手たちに申し訳なく思います。その中で、練習試合を組めていれば、もっともっと、一人一人のパフォーマンスは上がってきたと思うし、一つ一つの蓄積が身になって、チャンスをもらって公式戦でも力を発揮できたはずだと思います。
――セレッソ大阪との最終戦で、「前半のような戦い方、ある程度、自分たちがボールを持って主導権を握るというサッカーを、今シーズンは、連戦や、降格圏との勝点差の関係で、なかなかできなかった。でも、これは、ロアッソが来シーズン以降、もっと上位にいくためには必要なことだと思う」と、薗田淳選手が話していました。
清川 そうですね。勝点を積み重ねていかなきゃいけなかったときに、どうしても失点をしない、どうしても守備から入らざるを得ませんでした。本来、良い守備から良い攻撃を仕掛けるという戦術はあったのですが、選手たちも、ある程度、リスクを負ってでも、攻撃を仕掛けるという勇気が、少し持てなかった部分はありました。それができなかったのは、J2に残留しなければならないというプレッシャーが一番大きかったと思います。
――そういうものって、やはり「地震によって失われたもの」っていう感覚になりますか。
清川 地震でというよりは、中断期間や連戦の影響で時間がありませんでした。自分たちが、シーズンを通して、狙い通りにやっていくためのトレーニングの蓄積もできず、意識や質の向上にむけた、トレーニングの中での落とし込みもできませんでした。それが通常のサイクルで、試合と試合の間に1週間あれば、対戦相手に対しての準備に加え、自分たちのサッカーの質をどう上げていくかという準備を並行してできるとは思います。でも、トレーニングで、自分たちのサッカーの質の向上ができず、すぐに向かってくる対戦相手に対してどう戦うかという、少しの準備しかできませんでした。そういった準備ができる、できないということが、大きな勝ちにつながる、あるいは、逆に、勝てるゲームを落とすというところにもつながっていたと、今、思っています。
非常事態の監督1年目「やっていてよかった」
――あらためて、「地震がなかったら」と思うことはありますか。
清川 全部、今、終わった中でいくと、そこが思えないというか、よく分からないです。なかったらどうだったかということを思うところまでいっていないです、正直。
――それは何故ですか。
清川 難しい質問で、答えもちょっと難しいかもしれないのですが、理由は、もう起きてしまったことだからということと、自分は監督をして1年目だからということです。コーチは、熊本に来て6年間(2010年〜2015年)やりましたけど、これまで1年を通して監督としてやってきた蓄積はありません。監督としての1年間の作業、やらなければいけないことっていうものの経験がありません。監督としての経験は、今年1年しかないので、比較対象がなく、照らし合わせて何とかというものが、今、浮かんできません。そんな感じです。
――確かに、通常時の1年は過ごしていませんし、今年はある意味、非常事態の1年でした。清川監督にとっては、この1年が監督の全てで、比較の基準はないですね。
清川 どこかのチームで監督をやっていれば、通常、「多分、夏場にこういうことが起きて」とか、「それまでにこういうことをして何とか」というようなことを考えるはずです。そして、1年を積み重ねていくということが、監督業の経験だと思います。でも、その経験がなかった中で、この状況なので、今、言ったようなことが全てです。
――その一方で、地震の後に得たものとか、改めて気付かされたものが、たくさんあると思いますが、いかがですか。
清川 準備が、すごく大事なことだと思います。プレシーズン、開幕前のシーズンでの準備もそうですけど、地震が起きて1か月以上、トレーニングができない中で、リーグ戦に復帰して、コンディションもつくってきた部分が、1からまた体も含めてつくっていかなきゃいけませんでした。いろんな準備、体もそうですが、心も含めて、サッカーの技術的なところ、戦術的なところの準備をして積み重ねていかないと、1年間、戦っていくっていうのはすごく難しいことだなということを感じます。
<全体練習最終日(12月9日)、クラブハウス入口にサポーターが掲げた横断幕>
――ロアッソというチームの使命であるとか、熊本県民に与える影響の大きさとか、サッカー界全体のつながりであるとか、感じたものがあると思いますが、いかがですか。
清川 熊本の県民の方だけじゃなくて、全国のサッカーファミリーもそうですし、Jの各クラブさんもそうですし、大勢の方がロアッソ熊本っていうチームを応援してくれました。熊本の県民の方は、なおさら自分たちのチームのために応援してくれたし、復旧だったり、復興への願いを込めて声を掛けてくれたり、応援をしてくれました。サッカーをやっていてよかったなと思います。
――今年1年、監督をやってよかったって思われますか。
清川 クラブにも感謝しています。厳しいというか、きつかった1年でしたけど、監督をさせてもらってうれしかったし、選手と一緒にそこを乗り越えて、ぎりぎりですけど、残留して、また来年J2で戦って次のステップ、あるいは、目標に向かえる場にいけたということに関して感謝しています。
――今年の経験を来年以降にどうつなげていきますか。
清川 簡単には勝てないと思いますが、ロアッソ熊本の大きな目標であるJ1昇格というものに向かっていけると思います。J2で優勝することは、すごく難しいし、J1昇格プレーオフ(リーグ戦6位以内)まで進むことも、すごく難しいと思います。でも、今年、皆が苦しい経験をしているので、少々の苦しい状態で逃げだす選手は決していないと思います。「熊本のため」という部分も含めて、「チームイコール熊本」なので、チームのために、来年もまた1年間、戦ってくれると思います。人として、人間として大変な時期を乗り越えてきたことは、これからの人生にすごく大きな力になると思います。それを来年につなげる。今年、もがき苦しんだものは、来年、厳しい状況の中で耐えられる力になります。その力を皆が、持ってくれていると思います。
――監督は、熊本地震発生直後、「地震には勝てないかもしれないけれど、地震には負けないようにしたい」と言われました。その通り、負けない1年でした。
清川 何とか踏ん張ってきたとは思っていますが、その踏ん張りは、自分ではなく選手の踏ん張りなので、選手には、本当に感謝しています。
このインタビューは2016年11月30日(水)に行われました。
◇著者プロフィール:
山雄樹(やまさき ゆうき)
熊本放送(JNN・JRN)アナウンサー。1975年(昭和50年)6月16日、三重県鈴鹿市生まれ。立命館大学産業社会学部を卒業後、1998年熊本放送入社。主にスポーツの中継アナウンスや取材、番組制作を担当。系列のアナウンサーの技量を競う「アノンシスト賞」では、「テレビスポーツ実況」部門で二度、「ラジオスポーツ実況」部門で一度、九州・沖縄ブロック審査で最優秀賞、2015年度は、全国審査で優秀賞を受賞した。
チーム発足時からJ2ロアッソ熊本の取材や応援番組の司会を続け、2008年のJ2参入以降は、スカパー!Jリーグ中継でホームゲームの実況をつとめる。